永年在職表彰を賜りました。

2023/02/08 活動報告

永年在職表彰を賜りました。

参議院で在職25年の永年表彰を賜りました。
1998年の初当選以来、お一人お一人の府民の皆様のお力をいただいたおかげであり、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

なお、本会議場では時間の関係で、短めの謝辞を申し上げました。
以下、全体版を掲載させていただきます。

<謝辞(全体版)>

 ただいま、院議をもちまして在職25年の永年在職議員としての栄えある表彰を、福島みずほ先生、桜井充先生、鶴保庸介先生とともに賜りますことは身に余る光栄であり、望外の喜びであります。心から御礼を申し上げます。
 また、関口昌一自民党参議院議員会長より、心温まるご丁重なご祝辞を賜り、誠にありがとうございました。深く感謝を申し上げます。
重ねて、議場におられる同僚議員の先生方にも、このような機会を頂き、御礼申し上げます。

 私が高校一年の時、東京で中小企業を経営していた父が事業に失敗。住宅、工場を失い、行方不明。母と私、弟の三人は何の見通しもなく、母の実家のお寺がある京都に向かいました。高校の同級生に別れも告げず、忽然と、まさに夜逃げ同然でした。
 生活のため働きながら、再度高校に入学し直すことを決意し、翌年、京都府立嵯峨野高校に入学。二度目の高校一年が始まりました。この高校は、とても自由な校風で、貧乏な私にも居心地のよい場所でした。リベラルな政治信条はこの頃培われたのかもしれません。

 もちろん学費は自弁。新聞配達、パック寿司作り、イベント会場設営、土木作業員、夏休みは住み込みでゴルフ場のキャディー、本当にバイトばかりの高校生活でした。
 そんな折、「学問の神様」北野天満宮が、京都の公立高校生対象に奨学金制度を創設され、月1万円を頂けることになりました。これをきっかけに大学進学を真剣に考えるようになりました。どれほど有難かったことか、言葉では言い表せません。

 この経験から、民主党政権時、念願だった高校無償化を実現しました。その結果、経済的理由による中退者が大幅に減少し、学び直しの再入学者も増加しました。本当に嬉しく思いました。
 その後、政権から下野すると、今、話題の所得制限が導入されました。強い違和感を覚えました。なぜなら、同じ高校生の中で、親の年収で子どもを区別することになるからです。私のように、親の事業の失敗、離婚、死別、いろいろなリスクの中で、高校性は生きています。残念ながら、今の日本は親の年収が子どもの進学率を左右する社会となってしまいました。社会で子どもを育てる気運が最大の少子化対策です。

 自己責任の乱用、格差の拡大、中間層の剥落と非正規を含む低所得者層の増加、LGBTや女性差別、社会の分断が加速しており、どこか窮屈で息苦しくなっているように思います。
 私のようなマイナスから出発した人間でも、努力すれば国家の中枢で働くことができる、そのチャンスの存在と社会の懐の深さが、日本の底力だったのではないでしょうか。当時は、社会全体に人を応援する優しさや心の余裕があったように思います。

 そんな私が、ほとんど貯えもなく、雇用保険を受けながらマイク一本持って京都の街に立ち、政治活動を始めたのが、バブルも弾け、阪神淡路大震災とオウム真理教事件のあった1995年でした。
 翌96年初めて施行された小選挙区制度での総選挙に立候補するも落選。
 約2年の浪人生活を経て迎えた98年の参院選。自共の指定席と言われた京都選挙区での立候補、挨拶に回れば「無謀」「落選確実」「次頑張れよ」と言われる始末。それが、橋本総理の減税発言で空気が一変。トップで初当選となりました。
 爾来5期25年にわたり浅学非才の私が京都での議席をいただいています。私の知らないところで、一人一人の有権者のお力を賜り、ご支援を頂いたおかげであり、感謝の気持ちでいっぱいです。

 今、25年を振り返りますと2009年の政権交代までの野党時代、3年3ヶ月の政府・与党時代、そして再び野党に下野したこの10年余りの野党時代に分けられるように思います。
 初当選からの野党時代は、政権交代可能な二大政党をひたすら目指しました。またライフワークである地球温暖化問題を中心に、ダイオキシン特別措置法、フロン回収・破壊法等の制定に関わり、長く環境委員会に属しました。

 そして、2009年の政権交代。あの時の国民の期待の大きさと政権を担うという高揚感は言葉では言い尽くせないほどのものでした。結果として、3年3ヶ月の短い期間となり、未熟であったこと、国民の期待を裏切ったことなど内心忸怩たる思いでいっぱいです。
 しかしながら、岡田克也外務大臣の下、外務副大臣として気候変動問題の国際交渉を担い、COP15での徹夜の交渉は忘れることはできません。当時の日本は気候変動問題で世界をリードしていました。また、核の密約の解明、アフガン支援、ODA改革、核軍縮等々を担当し、外交のリアリティーを経験しました。
 また、菅直人内閣の内閣官房副長官として、政治家として絶対に忘れてはならない、2011年3月11日、東日本大震災。岩手県、宮城県、福島県を始めとする被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。私は原発事故担当として、福島と向き合う日々を過ごしました。全村避難のお願い、経験したことのない放射能被害の対応に追われました。
 その当時は自民党でさえも、原発に依存しない社会をつくることを標榜していました。私の政治家としての、原発のない日本を創りたい、との思いは単なるイデオロギーではなく、あの事故に直面した政治家としての責任と使命だと考えているからです。2011年の固定価格買い取り制度の導入により、わずか10年余りで再生可能エネルギーの設備容量が原発約20基分認可されたことは、わが国の再生可能エネルギーの可能性を示すものであり、ウクライナの戦争でエネルギー危機が叫ばれる中、今こそ再生可能エネルギーの普及拡大が不可欠です。
 民主党政権では、所得制限のない子ども手当・高校無償化、出産一時金の増額、農業の戸別所得補償制度、新しい公共という概念の導入、防衛大綱における動的防衛力への転換等を実現してきました。早々と下野した事は痛恨、無念の極みです。

 再び下野した2012年以降は、低支持率の厳しい状況が続きました。
 そんな中、2017年総選挙直前に枝野幸男衆議院議員とともに立憲民主党の結党に参画しました。
 総選挙告示の10日前の結党にもかかわらず、多くの国民の支持を受けました。本当に有難く、この時ほど有権者とつながった経験はありませんでした。その後、この参議院でも一人一人と仲間が増え、今では40名の会派となりました。野党第一党の幹事長としての4年2ヶ月は、「まっとうな政治」「差別のない、誰一人取り残さない政治」を掲げ続けてきました。

 党派を超えた、多くの政治家との出会いが今の私を形作っています。
 晩年の野中広務先生には温かいご指導を賜り、長年勤めておられた京都府障害者団体連合会会長のお役を引き継がせていただきました。日中関係が芳しくない時、何度も電話を頂き外交の要諦をご教示頂きました。
 武村正義先生には、新党さきがけの門を叩いたとき以来、長年にわたり、御指導を仰ぎました。
 仙谷由人先生には、公私ともにご指導賜り、政治のいろはを教えて頂きました。
 江田五月先生、鴻池祥肇先生、藤井裕久先生、横路孝弘先生、数えあげればキリがありません。心から感謝申し上げます。

 自ら25年を振り返った時、いったいどれほどのことを実現してきたのかという、自責の念にかられます。
 しかしながら、改めて、山積する日本の諸課題に懸命に取り組み、「京都、日本のために働く」、その思いはいささかも変わりません。

 紆余曲折のなか、これまで長年にわたりお支えいただいた京都府の皆様、後援会の皆様、京都の経済界、連合京都の皆様に改めて感謝を申し上げるとともに、亡き父母、身近でわがままな私を支えてくれた妻と息子、弟、多くの友人、そしてスタッフに深く謝意を捧げます。

 本日は誠にありがとうございました。