【コラム】私を育てた京都で学んだ「社会の懐の深さ」

2022/04/27 コラム

【コラム】私を育てた京都で学んだ「社会の懐の深さ」

日頃より福山哲郎の政治活動を応援いただきありがとうございます。

国会活動や地元での活動をニュースなどの報道でお伝えすることが多く、私自身のことをお伝えする機会が少なかったのですが、今号のメールマガジンでは、私の人格を形成し、今の政治理念の礎ともなった京都での生い立ちについてご紹介いたいします。

同級生に別れも告げずに辿り着いた京都


写真 / 福山が「最も好きな桜の風景」と話す、京都「平野神社」の桜

私が高校一年生(15歳)の夏、所持金6千円あまり、住む場所も働くところのあてもなく、傷心の母と小学一年生の弟と新大阪駅のホームに降り立ちました。
東京で鉄鋼関係の仕事をしていた父は、裁判所から仮押えの強制執行を受け、住宅、工場を失い行方不明に。母の実家が京都のお寺だったことから、何の見通しもなく私たち親子3人は京都に向かいました。同級生に別れも告げず、忽然と消えた、まさに着の身着のまま、夜逃げ同然で京都に辿り着きました。

町工場の社長がかけてくれた言葉


写真 / 住み込みでの生活の時代を語る福山

住み込みが可能なアルバイトを探し「親子3人で住むところがありません。一生懸命働くのでここに置いてください。そうでなければ野垂れ死ぬしかありません」と半ば脅しで土下座する私に、小さな町工場の社長は「今日から働いてもらいましょう。君が嘘をついているようには見えないから」と、住む場所と仕事を与えくれました。半年後、再度、高校に受験をし直し、京都府立嵯峨野高校に合格。二度目の高一が始まりました。

様々なアルバイトで体験をしたあたたかさ


写真 / 学生時代も働きながら過ごした京都の街

高校の学費はもちろん自弁。新聞配達、スーパーのパック寿司作り、土木作業員、夏休みは住み込みでゴルフ場のキャディー、様々なアルバイトで働かざるを得なかったのが現実でしたが、新聞配達では一ヶ月以上誤配をせず配達したご褒美にもらった5千円は本当にうれしかった。「ご苦労さん、おおきに」と声をかけてくれるおばあちゃん、軒先で冷たいお茶を出してくれる事務員さん、何気ないあたたかさが身にしみました。

自らに課した3つのルール


写真 / 街頭でも多くの声をかけられる福山

そんな生活を送るうちに、「学問の神様」で知られる北野天満宮が、京都の公立高校生を対象に奨学金制度を創設し、私は初代奨学生に選ばれ月一万円を頂けることになり、それを機に大学進学を考えるようになりました。この頃自ら心に決めたルールがありました。「貧しさが顔に出ないよういつも笑顔でいる」「多くの出会いに恵まれ生きている限りは、何かを頼まれたときNOとは言わずまずやってみる」「大好きな本は、自分のお金で買う」。

念願の高校無償化の実現とその後


写真 / 福山が通った同志社大学前で現役大学生と

奨学金制度のおかげもあり私は大学入学を果たし、その後、民主党政権時代に念願だった「高校無償化」を実現しました。結果、経済的理由による中退者が大幅に減り、学び直しの再入学者も増加しました。それは望外の喜びでした。しかし、自民党政権に戻ってからの所得制限の導入は、クラス内で親の年収で子どもを区別することに繋がり、強い抵抗を覚えています。残念ながら今の日本は親の年収が子どもの進学率を左右する社会になってしまっています。また、大学卒業時に、平均300万円余りの返済型奨学金、つまり借金をかかえて就職する学生がたくさんいます。健全とはいえません。

チャンスの存在と社会の懐の深さのある日本を


写真 / 1998年 参議院京都選挙区で初当選を果たした

私のようにマイナスから出発した人間でも、努力すれば政治家として働くこともできる。そのチャンスの存在と社会の懐の深さが日本の底力だったのではないでしょうか。世襲でもない私が失業保険を受けながらマイク一本持って街頭に立ち政治活動を始められたのは、京都の皆さんの温かさ、寛容さのおかげです。そして、15歳の少し濃密な体験が私をたくましく育ててくれたからかもしれません。政治家である限りは、この頃に頂いたたくさんの人からの優しさを、今度は次の世代の子どもたちに返していきたい。それが「誰一人として排除されることのない社会」を目指し活動を続けることであると、私は信じています。

内容は岩波書店『私の「貧乏物語」』に掲載されています。福山を含めた各界36名の方々の体験を綴ったエッセイ集です。
詳しくはこちら (※岩波書店のサイトへリンクします)